相澤忠洋について

相澤忠洋

日本人の祖先の生活に思いを馳せ、孤独の中から到達した岩宿こそ、私という一人の人間に刻まれた二十三番目の年輪であった。
「岩宿」は、青春の日の輝かしい思い出であり、
また私の人生の記念碑でもある。

相澤忠洋著「岩宿の発見」より

1949年(昭和21年)笠懸町稲荷山(岩宿)の切通しの崖で、関東ローム層中に埋もれていた黒曜石の石片などを発見、 その後の採集資料や1949年の最初の発掘を通じて相澤の発見が確実となり、日本の旧石器時代、すなわち岩宿時代の研究がスタートしました。

発掘調査歴等

発見・発掘年月 発見・発掘遺跡名 解明結果
昭和21年 岩宿遺跡(新田郡笠懸村)発見 旧石器時代の存在
昭和23年5月 不二山遺跡(勢多郡新里村)発見 前期旧石器時代・約5万年~6万年前
昭和24年9月 岩宿遺跡を明治大学と共に発掘調査 日本で初めての旧石器文化の学術調査
昭和25年2月 権現山遺跡(伊勢崎市)発見 前期旧石器時代・約4万5千年前
昭和26年9月 桝形遺跡(勢多郡宮城村)発掘調査 後期旧石器時代の細石器文化の層位的確認
昭和33年11月 西鹿田遺跡(新田郡笠懸村)発掘調査 旧石器文化から縄文時代草創期文化の層位的確認
昭和45年9月 磯遺跡(佐波郡赤堀村)発掘調査 前期旧石器時代・約10万年前
昭和47年8月 夏井戸遺跡(勢多郡新里村)発掘調査 前期旧石器時代・約10万年前

相澤忠洋の年譜

相澤忠洋

春、その山を眺め
夏、その山を歩き
秋、その山の土をなめ
冬、その山を掘った。

  • 1926(大正15年) 0才

    6月21日東京府荏原郡羽田村にて相澤忠三郎・いしの長男として出生

  • 1934(昭和9年) 8才

    4月鎌倉市へ新居完成。古代遺物に接し心ひかれる

  • 1935(昭和10年) 9才

    父母離婚。阪東札所一番、杉本寺に預けられる

  • 1937(昭和12年) 11才

    父と共に群馬桐生市に転居。8月浅草に小僧奉公に出される

  • 1938(昭和13年) 12才

    浅草「東京市正徳尋常夜学校」夜間4年に入学
    帝室博物館(現在の東京国立博物館)守衛数野甚造氏の知遇を得る。

  • 1944(昭和19年) 18才

    5月横須賀武山海兵団志願入団
    12月二等駆逐艦「蔦」配属、水兵長に任官。

  • 1945(昭和20年) 19才

    2月「蔦」呉港に向けて横須賀を出撃、阿月にて偽装接岸し、特攻出撃を待つ。
    8月山口県柳井市阿月に於いて広島投下の原爆キノコ曇を見る。終戦に伴い、桐生に復員する。

  • 1946(昭和21年) 20才

    群馬県新田郡笠懸村稲荷山前の切通しの関東ローム層中に石剥片を発見、注目し以後このこの解明と調査に当る(後の岩宿遺跡)

  • 1947(昭和22年) 20才

    4月、 東毛考古学研究所を設立。この頃群馬師範教授尾崎喜左雄先生の知遇を得る。

  • 1948(昭和23年) 22才

    5月、不二山遺跡(勢多郡新里村)発見
    前期旧石器時代約5万年~6万年前

  • 1949(昭和24年) 23才

    7月、笠懸村岩宿の稲荷山前切通しに於いて槍先形尖頭器を発見。東京にて芹沢長介先生と邂逅し赤土から出土する石器について語る。 9月17日、 岩宿遺跡を明治大学の杉原荘介助教授・芹沢長介先生・岡本勇さんと相沢の主宰する東毛考古学研究所(堀越靖久・加藤義正氏らが参加)の合同で発掘する。杉原助教授ハンドアックスを発掘し相沢の発見が立証される。
    日本で初めての旧石器文化の学術調査
    10月2日より10日まで、杉原荘介先生を調査主任とする明大考古学研究室が岩宿遺跡の第一次発掘調査をおこなう。また、相沢も東毛考古学研究所として合同調査をする。(塚田光氏が参加)

  • 1950(昭和25年) 23才

    2月、群馬県伊勢崎市権現山遺跡発見調査
    前期旧石器時代・約4万5千年前
    4月、明治大学による岩宿遺跡第二次発掘調査に参加する。
    「赤城山麓文化のあけぼの」『考古学の友』3-1

  • 1951(昭和26年) 24才

    1月、那須の別荘に大山柏先生を訪れ、旧石器に関する教えを受ける。
    9月、桝形遺跡(勢多郡宮城村)発掘調査
    後期旧石器時代の細石器文化の層位的確認

  • 1954(昭和29年) 28才

    9月2日から8日芹沢長介先生の矢出川遺跡発掘調査に参加。由井茂也氏を知る。

  • 1955(昭和30年) 29才

    4月、三浦きみと結婚

  • 1956(昭和31年) 30才

    日本第四紀学会員となる
    5月、マリンガー氏により「アントロポス」スイス「マン」英国等の考古学雑誌に相沢のことが紹介される
    「北関東赤城山麓におけるマイクロコアの発見」『貝塚』第58号

  • 1957(昭和32年) 31才

    「赤城山麓における関東ローム層中諸石器文化層の位置について」『第四紀研究』第1巻第1号
    相沢による赤城山麓の旧石器遺跡の最初の編年

  • 1958(昭和33年) 32才

    11月、西鹿田遺跡(新田郡笠懸村)発掘調査
    旧石器文化から縄文時代草創期文化の層位的確認

  • 1959(昭和34年) 33才

    5月、フォトアート創刊10周年記念号に土門拳氏を岩宿遺跡に撮影案内をする。
    8月、西九州「福井洞穴」学術調査団団員、芹沢長介先生と共に参加する。その後矢出川など芹沢先生の発掘には必ずといっていいほど相沢さんの姿があった。
    12月、 「赤城山麓に於ける縄文早期文化と西鹿田遺跡発掘調査の意義」『古代文化』(昭和34年12月号)

  • 1961(昭和35年) 35才

    11月23日群馬県より岩宿遺跡発見の功労により表彰される
    『赤堀邑のあゆみ』赤堀村教育委員会

  • 1963(昭和37年) 37才

    日本人類学会会員となる

  • 1964(昭和39年) 38才

    藤森栄一先生の訪問を受け、岩宿遺跡で想い出話をする

  • 1966(昭和41年) 40才

    2月~8月国民百科(雑誌)に「岩宿への道」7回連載

  • 1967(昭和42年) 41才

    4月岩宿遺跡発見の功績により第一回吉川英治文化賞受賞

  • 1969(昭和44年) 43才

    1月 『岩宿の発見』講談社

  • 1970(昭和45年) 44才

    磯遺跡(佐波郡赤堀村)発掘調査
    前期旧石器時代・約10万年前

  • 1971(昭和46年) 45才

    10月廃バスを利用して夏井戸遺跡に『赤城人類文化研究所』を設立

  • 1972(昭和47年) 46才

    国立宇都宮大学講師となる(集中講義)
    8月夏井戸遺跡(勢多郡新里村)発掘調査
    前期旧石器時代・約20万年前

  • 1973(昭和48年) 47才

    1月妻きみ胃ガンの為死去、享年43才

  • 1974(昭和49年) 48才

    日本考古学協会員となる(芹沢先生の推薦による)

  • 1975(昭和50年) 49才

    11月過労がもとで三ヶ月間入院する。
    12月夏井戸遺跡資料収蔵庫完成

  • 1976(昭和51年) 50才

    4月群馬県文化財保護審議委員となる

  • 1977(昭和52年) 51才

    11月18日群馬大学名誉教授七条小次郎先生ご夫妻のご媒酌により久保田千恵子と結婚

  • 1978(昭和53年) 52才

    10月 『地下に歴史を掘る-日本の考古学100年』を朝日新聞社より出版(斉藤忠、坪井清足、網干善教、杉原荘介ほか共著)

  • 1980(昭和55年) 54才

    7月 『赤土への執念』佼成出版より発刊

  • 1981(昭和56年) 55才

    10月関矢晃氏と共に宮城県座散乱木遺跡研究会に出席する。遺跡発見者藤村新一氏とあう。

  • 1983(昭和58年) 57才

    1月桐生厚生病院に脳内出血の為3度目の入院(以後亡くなられるまで病院暮らしが続いた)

  • 1985(昭和60年) 59才

    10月第20回全国史跡整備市町村協議会より全国表彰される。表彰式には相澤千恵子夫人が代理出席。

  • 1988(昭和63年) 62才

    11月 『赤城山麓の旧石器』講談社より発刊される(関矢晃氏と共著)

  • 1989(平成元年) 63才

    5月22日桐生厚生病院にて脳内出血の再発により午前7時38分死去、桐生市薬王寺に眠る。逝去の日勲五等瑞宝章が国より贈られた。
    11月5日笠懸村より名誉村民第一号の称号贈られる。

  • 1991(平成3年)

    4月28日「相澤忠洋記念館」開設。
    9月15日「相澤忠洋賞」創設。

  • 1992(平成4年)

    4月1日「相澤忠洋記念館後援会」設立。
    5月3日相澤忠洋記念館開設1周年記念講演会 講師:芹沢長介先生。
    9月15日藤村新一氏に第1回「相澤忠洋賞」贈呈。

  • 1993(平成5年)

    4月1日~5月30日第1回企画展「芹沢銈介作品展」。
    9月15日由井茂也氏に第1回「相澤忠洋賞」授与。

  • 1994(平成6年)

    3月26日相澤忠洋頭像、八木叔子氏より寄贈さる。
    4月1日~6月30日「縄文土器展」武居幸重氏講演会。
    8月30日「忠洋会々報」2号発行。

  • 1995(平成7年)

    4月18日~7月31日七回忌追善第3回企画展「足尾路遺文展」。
    9月15日東北旧石器文化研究所、第4回「相澤忠洋賞」贈呈。

  • 1996(平成8年)

    5月12日芹沢先生、記念館5周年記念講演会。
    9月15日尾関清子氏に第5回「相澤忠洋賞」贈呈。

  • 1997(平成9年)

    9月21日岩宿大学第3講「岩宿と相澤忠洋座談会実施(相澤忠洋研究の足跡その再検討と再評価)」【パネラー芹沢先生・梅沢先生・関矢氏・堀越氏・川島氏】。

  • 1999(平成11年)

    4月17日「岩宿遺跡発掘50周年記念特別企画展」が岩宿文化資料館で開催。
    4月17日~6月13日『岩宿時代を遡る』
    7月17日~9月15日『日本史を書き換えた「岩宿の発見」』
    10月1日~11月23日『岩宿遺跡発掘50年の足跡』
    9月10日松島栄治氏に第7回「相澤忠洋賞」贈呈。
    9月17日岩宿遺跡発掘50周年記念切手(80円)発行される。

  • 2000(平成12年)

    11月5日藤村新一氏の遺跡捏造を毎日新聞社が発表。
    11月12日藤村新一氏と東北旧石器文化研究所に贈呈した「相澤忠洋賞」を返納させる。

  • 2001(平成13年)

    1月「波乱の考古学を憂える」『中央交論』1月号に芹沢先生執筆。
    8月5日相澤忠洋記念館緑陰文化講演会にて、加藤正義氏「岩宿遺跡発掘の思い出ー若き日の相澤忠洋さんを偲んで」を講演。
    9月16日「相澤忠洋胸像」岩宿遺跡B地点に建立し、除幕式を挙行。台座の銘文は芹沢先生の揮毫による。

  • 2002(平成14年)

    1月1日相澤忠洋記念館会報「夏井戸だより」創刊号発行。
    5月19日「槍先形尖頭器モニュメント」を相澤忠洋記念館入り口に田村岳峰氏寄贈により設置、序幕式挙行。
    10月20日相澤忠洋記念館緑陰文化講演会にて、大里仁一「相澤忠洋先生の思い出」を講演。

  • 2003(平成15年)

    5月1日~9月28日相澤忠洋記念館11回企画展<平面発掘の先駆け>「三ツ屋遺跡展」を開催。
    4月27日~9月28日「私の描いたマドンナ達」川島正一素描展、ギャラリー夏井戸で開催。
    5月1日大型耐火・防犯金庫を設置。

  • 2004(平成16年)

    1月15日『仮称・相澤忠洋伝』編集委員会発足。
    1月29日~2月11日劇団民藝「明石原人」を東京新宿紀伊国屋ホールで上演。劇中、相澤忠洋役が当時を演じていた。

  • 2005(平成17年)

    4月1日『「追憶相澤忠洋」-1949年9月11日 この日に歴史が動いた』を刊行。
    7月24日「石器つくり講習会」。
    9月18日「吉川賞と吉川英治その人」と題する文化講演会講師:吉川英治記念館顧問城塚朋和氏。

相沢忠洋について

ふるさと鎌倉

相澤さんのふるさとは、8歳から11歳まで過ごした鎌倉です。歴史の町に育ったのも考古学に進んだきっかけの1つだったのかもしれません。

忠洋少年の古代への思い

妹の死をきっかけに家族の団らんが壊れ始め、忠洋少年の家族への思いは強くなっていました。そんな頃、住宅の建設現場へ遊びに行き、土器片を見つけ、その土器辺に強く心を引かれ集めていました。調査に来ていた人から大昔の人達が幸せに暮らしていた様を聞き、思いは太古に向けられました。

露天の石斧

石斧
露天で買った分銅形石斧
本館蔵

ある日露天の骨董屋で30銭の石斧を見つけました。眺めていうちに懐かしい思い出や古代への憧れが強くなり欲しくなるが10銭しか持っていません。「もっていきな!」と言われるほど眺めていました。

納豆の行商

若き日の相澤忠洋

納豆の行商をしていれば、朝晩行商に出て日中は発掘が出来ます。「夜学の小学校しか学歴の無い納豆の行商人が考古学をやるのは生意気だ」と心無い人達から中傷を受けていたのです。でも相澤は、「考古学がやりたいから、納豆の行商をしているのだ。サラリーマンでは、時間に拘束され遺跡の踏査が自由に出来ない。目的の手段として行商をしている」と言っていました。

岩宿の発見

槍先形尖頭器

群馬県新田郡笠懸村に稲荷山、琴平山と呼ばれる小さな丘陵が接して並び、その間に赤土が露呈している切通しがありました。相澤さんは納豆の行商をしながらいつも地層に注意していました。ある時一片の石片を見つけ、これが岩宿遺跡発見の序章となりました。
相沢さんは「長さ3センチばかり幅1センチほどの小さなその石片はてのひらのうえで、ガラスのような透明なはだを見せて黒光りしていた。その形は、すすきの葉をきったように両側がカミソリの刃のように鋭かった。」と「岩宿の発見」の中に書いています。
それから約3年後、黒曜石製の完全な形をした槍先形尖頭器の発見に至ります。「空にかざして太陽にすかしてみると、じつにきれいにすきとおり、中心部に白雲のようなすじが入っていてね。私にはその美しさが神秘的に思えるのだった。」と「岩宿の発見」の中に書いています。

岩宿発見の報道

相澤忠洋
昭和20年代の岩宿遺跡
芹澤長介先生撮影

昭和24年9月20日付け毎日新聞東京版には二段抜きの見出しに「旧石器の握槌 群馬県で発見 十万年前と推定」と発表されました。そして、本文は以下のとおりでした。
「このほど明大考古学研究室によって、原始人の手で作られた旧石器が発見された。現場は群馬県桐生市外笠懸村字岩宿にある岩宿小丘といい、去る四日地元アマチュア考古学者がここで集めた石削のなかに珍しい形のものがあるのを同教室の杉原助教授が発見、十日から三日間現地試掘をしたところ関東ローム層の下部から旧石器時代特有の形をした横刃型、尖刃型石器十数個をはじめ粘板岩製グトボアン(握槌形石器)も発見したもの。
これと同時に出土地点が関東ローム層の下部であるという事実を確認するため東大地質学助教授多田文男氏が十五日現地を再発掘しその地点を確認、遺物包含層を岩宿地層と命名し、その編年学的古さを研究することとなった」(後略)

岩宿遺跡から夏井戸遺跡へ

相澤忠洋
夏井戸の崖に向かう相澤さん
(『赤土への執念』より)

岩宿遺跡を発見した相澤の考古学調査はその後も続きました。発見した遺跡の数は21カ所にものぼっています。そのなかでも、もっとも最後に発見されたのが、現在記念館のある夏井戸遺跡です。

この夏井戸遺跡は約6万年以上前の年代が与えられており、前期旧石器時代のものとされています。相澤はこの場所に廃バスをもちこみ、「赤城人類文化研究所旧石器研究室」を開設したのです。そして、仲間たちと共同で発掘をおこないました。
そして、いつの日かこの夏井戸から旧石器時代人の人骨を掘り出すことを夢見てたのです。

「関東ローム層の中に、石器を残し使った担い手は、いずれにしても日本列島の中にいたと、私は確信しております、ただ、骨が出ない。それは、いま出ると壊されてしまうから、もう少し静かになったら出てこようと待っているのだと思います。私の目の前、赤土のむこうに、もう少しの所まで骨が出てきているのですが、赤土の陰に出ないで待っていて、使った道具だけを、私どもの目の前に出してくれているのだと思います。」(相澤忠洋『地下に歴史を掘る』より)

相澤忠洋夏井戸遺跡遠望
(『赤土への執念』より)

相澤忠洋夏井戸遺跡の予備発掘
(『赤土への執念』より)

相澤忠洋開設当初の赤城人類文化研究所
(『赤土への執念』より)

相澤忠洋夏井戸遺跡出土の石器
(『赤土への執念』より)

岩宿遺跡に相澤忠洋の銅像が完成しました。

相澤忠洋相澤忠洋胸像(沼野章彦氏作)

相澤忠洋除幕式の様子

相澤忠洋台座銘文

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*令和2年3月末日まで一時的に休館しています。

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